2025年4月13日棕櫚主日の礼拝メッセージ
ルカの福音書 第13章1~9節
【 金 言 】
ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。
ルカの福音書 第13章8~9節
【 説教要旨 】
「私のために切り倒された主」
木村勝志牧師
①父なる神の忍耐
このいちじくは三年も実を結ばないばかりか、他の収穫を妨げていて「土地まで無駄にしている」状態です。人は神を愛し、神に従って歩むとき、真に人間らしく生きられるよう造られていながら、アダムの堕罪以来、全人類は神に背を向け、的外れの歩みをしています。その結果、実を結ばないばかりか、神の御名を汚してさえいます(ローマ2:24)。そんな私たちに対して神はじっと忍耐してこられたのです。
②御子イエスのとりなし
実を結ばないいちじく(=全人類)を切り倒すよう命じる主人(=父なる神)に対して、番人(=御子イエス)は「ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください(文語訳「主よ、今年も容(ゆる)したまへ」)…それでもだめなら、切り倒してください」と主人にとりなします。「切り倒します」ではなく「切り倒してください」ですから、たとえ来年も実を結ばなくても、番人には切り倒す気などまるでなく、なおもとりなし続けるつもりだということです。このように全人類をかばう主イエスは、やがて全人類の罪の身代わりとして十字架上で切り倒され、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られました(ルカ23:34)。切り倒されて当然の者が今まで切り倒されずにきたのは、父なる神の忍耐と御子イエスのとりなしのゆえです。この主イエスを信じて生きる人生は、いつでもやり直し可能な人生です。「木の周りを掘って(みことばと御霊の光によって自己の真相を深く掘り下げられる)」、「肥料をやってみます(みことばという肥料によって日々養われる)」。この二つが、「それで来年、実を結べばよいでしょう」という主のご期待にお応えするための処方箋です。