2025年5月18日の礼拝メッセージ
マタイの福音書 第16章21~23節
【 金 言 】
そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。
マタイの福音書 第16章21節
【 説教要旨 】
「多くの苦しみを受けるキリスト」
木村勝志牧師
ペテロが信仰告白した「そのときからイエスは」弟子たちの教育訓練に集中されるようになり、その最初が受難予告でした。主イエスの受難は偶然ではなく、必然的な神の救いのご計画であることを強調する「なければならない」です。
しかしなぜ神の御子イエスが十字架上で「殺され、三日目によみがえらなければなければならない」のでしょうか。それは、「神は、罪を知らない方(主イエス)を私たちのために罪とされ」たからです(Ⅱコリント5:21)。
主イエスは全時代・全人類の罪を引き受けて罪の塊となって十字架につけられた以上、たとえ愛する御子であっても罪は罪としてさばかずにはいられないのが神の義です。否それ以上に、神は愛なるお方。御子イエスを身代わりの死に渡してまでも、人間を罪と滅びから救いたいのが神の愛です。十字架はまさに「神の義と愛の合えるところ」(新聖歌230番)です。
しかし十字架の死だけでは、主イエスが本当に罪と死に勝利されたのかどうかわかりません。復活があってはじめて十字架の贖いは確かになります。だから「三日目によみがえらなければならない」のです。
「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられ…自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」(ピリピ2:6~8)。この想像を絶する主イエスのへりくだりのゆえに、今の私があります。すべて失ったとしても、「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」(マルコ1:11)との神の御声を聞いて喜べるでしょうか。神の子とされていることだけで感謝し、満足できるでしょうか。