2025年7月13日の礼拝メッセージ

【 聖書箇所 】

マタイの福音書第16章24~28節

【 金  言 】

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。

      マタイの福音書第16章24節

【 説教要旨 】

「たとえ全世界を手に入れても」

      木村勝志牧師

 25節以下は、「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言われた理由です。

 第一に25節、「いのち」は私たちの存在の根源です。「自分のいのちを救おうと思う者」、神を抜きにして成功や繁栄のみを追い求める者は「いのちを失」い、「わたしのためにいのちを失う者」、主イエスに従って生きる者は真のいのちを「見出す」のです。

 第二に26節、神を抜きにして「たとえ全世界を手に入れ」るほど成功したとしても、「自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか」、取り返しのつかない大損失です。「私は全世界を手に入れたいとは思わない」と言うかもしれませんが、「全世界」を自分の夢・理想・宝等に置き換えたらどうでしょうか。それらを手に入れたとしても、失ってしまっては元も子もない、もっと大切なもの、「全世界」に匹敵する、否それ以上に価値あるもの、それが「いのち」、あなた自身です。その「いのち」を救うか失うかは結局、主イエスとの関係にかかっているのです。

 第三に27節、キリストが再臨されるとき、人は皆、神の前に出て人生の決算書の点検を受けます。神の前にどのように歩んだか、与えられた賜物をどのように用いたかが評価され、報いが決まります。地上での歩みが永遠を決定するのです。「あなたはどんな姿で天国での記念写真に写りたいですか」。

主イエスを信じ従う弟子となる決断をすることは、人生の大事業です。昔、「どっちが得か、よーく考えてみよう」というCMがありました。主イエスの弟子として生きるか、主イエスを拒絶して生きるか、二つに一つであって、中間などあり得ません。主イエスの弟子として生きる道は、ときに犠牲を強いられることがあったとしても、間違いなく祝福の道です。パウロや世々のキリスト者たちが証人です。