2025年6月15日の礼拝メッセージ
マタイの福音書 第16章24~28節
【 金 言 】
だれでもわたしについて来たいと思うなら、
自分を捨て、自分の十字架を負って、
わたしに従って来なさい。
マタイの福音書 第16章24節
【 説教要旨 】
「自分を捨てて主イエスに従う」
木村勝志牧師
誤ったメシア観は、誤った弟子観につながります。そこで主イエスは、弟子たちの注意をご自身の
受難から弟子たちのあるべき姿に移されました。
主イエスは、私たちに対して無理やり従わせるようなお方ではありません。「わたし(の後ろ)について来たいと思うなら」と譲歩しながら、私たちが自発的に従う選択をするよう促されるお方です。主イエスの後ろに従って行くためには、その前にまず「自分を捨て」ということがどうしても必要です。そうでないと、いつの間にか主イエスの前に出て邪魔をしてしまうからです。「自分を捨て」とは、人格や個性を否定したり、財産を投げ出したりすることではありません。「何が何でも。自分が自分が」という自己中心を捨てて、自分の考えや計画よりも神の御心に従うことを人生の原則にするということです。
私たちの「額には神の御名が記されている」(黙示録22:4)。私たちの言動によって「神の御名」が汚されていないでしょうか。真に「自分を捨て」て主イエスに従い、真にみことばに聴従しているなら、「神の御名」が汚されるような状態を放置できないはずです。神のみことばは、私たちを苦しめたり困らせたりするためにあるのではなく、私たちが真に人間らしく生きることができるようにするためにあります。みことばによって叱られたとき、「自分を捨て」て神中心の生き方に方向転換する人は幸いです。
ルカ9:23には「自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」、「日々」という語があります。「時々」ではなく「日々」。「自分を捨て」て主イエスに従う生き方は、主日等の特別な日のためだけではなく、ごく普通の日々、平凡な日常生活の繰り返しの中でこそ実践すべき生き方なのです。