2025年6月22日の礼拝メッセージ
マタイの福音書 第16章24~28節
【 金 言 】
だれでもわたしについて来たいと思うなら、 自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
マタイの福音書 第16章24節
【 説教要旨 】
「十字架を負って主イエスに従う」
木村勝志牧師
「自分の十字架を負って…従って来なさい」と言われたとき、残酷極まりない十字架刑を度々目撃してきた弟子たちや人々は大きな衝撃を受けたことでしょう。やがて主イエスは「十字架を負って」市中を引き回され、十字架につけられて死なれます。主イエスにとって「十字架を負」うことは、全人類を罪と滅びから救い出すための神の御心でした。主イエスを信じる者は、もはや罪の結果として「十字架を負」う必要はありません。代わりに「自分の十字架を負って」生きる、神のご計画・御心を受入れて歩むよう招かれています。
「自分の十字架を負って」従うとはどういうことか、どういうことでないのか、具体的に教えるのが、ペテロと復活の主イエスとの会話です(ヨハネ21:15~23)。
「わたしに従いなさい」との命令にお応えしたペテロですが、「イエスが愛された弟子(ヨハネ)がついて来るのを見」、「この人はどうなのですか」と思わず尋ねました。ペテロは、主イエスに信頼して「自分の十字架を負って」従っていけばよかったのに、自分とヨハネを比較したのです。私たちは他人の十字架がどの程度重いかよく知らないで、「あの人の十字架のほうがよい」などと軽はずみに言いがちですが、神は私たち一人ひとりにぴったり合った十字架、この私にしか負えない十字架を備えておられます(詩篇16:6)。愛なる神が私にとって一番よいと思って割当ててくださった十字架として感謝して受入れ、「自分の十字架を負って」主イエスに従って行くことです。それこそが最も自分らしく最高の人生を送ることができる生き方なのです。
それでも「自分の十字架を負」うことに納得できなければ、どれほど豊かな神の恵みがあったか思い返してみましょう。納得できないことをはるかに上回る神の恵みがあったはずです。今はわからなくても、「自分の十字架を負って」主イエスに従うことをやめないように。きっと主イエスや兄弟姉妹の助けがあります。