2025年12月28日の礼拝メッセージ
【 聖書箇所 】
ルカの福音書 第17章11~19節
【 金 言 】
九人はどこにいるのか。この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。
ルカの福音書 第17章17~18節
【 説教要旨 】
「九人はどこにいるのか」
木村勝志牧師
①信じたのは十人(11~14節)
当時、「ツァラアトに冒された」人は社会から離れて暮らさなければならず(レビ記13:45~46)、主イエスに出会っても近づけなかったため、「遠く離れたところに立ち、声を張り上げて、『イエス様、先生、私たちをあわれんでください』」と叫び求めました。すると主イエスが「行って、自分のからだを祭司に見せなさい」と言われたので、そのことばを信じてそのとおりにしたところ、「行く途中できよめられた」。「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(ヘブル11:1)。信仰とは、「望んでいること」が今は実現していなくても、将来必ず神が実現してくださると確信して疑わないことです。それは、神のみことばという確かな保証・基盤があるからです。だからこそ「目に見えないものを確信」できるのです(マタイ5:18、24:35)。
②感謝したのは一人(15~18節)
十人の「うちの一人は、自分が癒やされたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝」すると、主イエスは「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と宣言されました。ツァラアトの癒やし以上にすばらしく、永遠に価値ある罪の赦しを得ました。主イエスのもとに帰って感謝した一人と引き返さなかった九人、その後の生涯には大きな差が生じたことでしょう。困ったときには「声を張り上げて」神に叫ぶが、問題が解決して感謝するのは遅く乏しい。これでは「九人」と同じです。「感謝した」という語は、「正しく」という語と、「恵まれていることを覚える」という語の合成語です。受けた恵みを正しく覚えるところに真の感謝が生じる、ということです。日々、しばし立ち止まり、受けた恵みを覚えて感謝する習慣を身につけましょう。

