2023年6月18日の礼拝メッセージ

聖書箇所 マタイの福音書3章7~12節

主題聖句:

悔い改めにふさわしい実を結びなさい。

      マタイの福音書3章>8節

本日の説教要旨:「悔い改めにふさわしく」

 「人々がヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けて」いると、「大勢のパリサイ人やサドカイ人」も「バプテスマを受けに来」ました。それが真心からでないことを見抜いたヨハネは開口一番、「まむしの子孫たち」と非常に厳しい言葉を投げかけました。真実に悔い改めようともしないで、ただ形式的にバプテスマを受けに来ただけの彼らの心の中心にあったのは、「われわれの父はアブラハムだ」という誇り・プライドでした。

 並行箇所ルカ3:7~14では、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」と語った後、群衆や取税人や兵士に具体的にどうすべきか教えていますが、本書では、パリサイ人やサドカイ人に具体的なことは一切語っていません。彼らの本質を見抜いていたからでしょう。具体的な指示は一切出さず、ただ真実にへりくだる心を彼らに求めました。へりくだる心こそ、悔い改めの実を結ぶ上で絶対不可欠な大前提だからです。へりくだる心抜きでいくら形式的に律法や規定を守ったところで、「この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」(15:8、イザヤ書29:13)と忌み嫌われるだけなのです。

 「まむし」が受けるべき呪い、「火に投げ込まれます」という呪いは、主イエスに下りました。神は私たちを火に投げ込む代わりに、主イエスを十字架の「火に投げ込まれ」たのです。「まむし」のような私たち、「石ころ」のような私たちが、悔い改めと信仰によって神の子とされる、何という恵みでしょうか。「今は、恵みの時、今は救いの日」(Ⅱコリント6:2)。「折を見て、また」(使徒24:25)と決断を先延ばししてはなりません。