2024年1月21日の礼拝メッセージ
聖書箇所 マタイの福音書 9章27~31節
主題聖句:
イエスが、「わたしのそれができると信じるのか」と言われると、彼らは「はい、主よ」と言った。
マタイの福音書 9章28節
本日の説教要旨:
「私たちをあわれんでください」
「目の見えない二人の人が、『ダビデの子よ、私たちをあわれんでください』と叫びながらついて来た」。「ダビデの子」とは、約束のメシア・救い主を指す称号です(エレミヤ23:5~6)。二人も普段から救い主を待望して生きていたのでしょう。盲目でしたが、霊の目は開かれていました。主イエスがメシアであれば、預言のとおり自分たちの目も開いてくださるはずだと信じ、すぐ答えられなくても諦めないで、叫び続けながら家まで追いかけました(イザヤ35:5)。「わたしにそれができると信じるのか」と主イエスに問われると、「はい、主よ」と単純率直な信仰表明。「イエスは彼らの目にさわって」「信仰のとおりに」癒やされました。
二人の何が何でもという一途さに比べ、私たちはあまりにもお行儀よすぎるのではないでしょうか。今のあなたの祈り願いは何ですか。どれほど真剣に祈り求めてきましたか。私たちは彼ら以上に正確に「ダビデの子」イエスを知っていますが、「わたしにそれができると信じるのか」という問いかけに「はい、主よ」と答えてきましたか。あれこれ理由をつけたり、最初から諦めたり決めつけたりしてはいませんでしたか。「神が祈りに答えてくださるのを待つ間…希望を握り締め続けることは難しい。だが、あきらめたくなるとき、私はいつでもある老牧師の『神の文法』という題の説教を思い出す。『神が終止符を打ったところに、コンマを置いてはいけない。また、神がコンマを置いたところに、終止符を打ってはいけない』。私たちが終止符だと思ったものが、実はコンマだったということがある。それはただ、御心に基づいて神が間をあけていらっしゃるだけなのだ」(マーク・バターソン)。「あなたの口を大きく開けよ。わたしが それを満たそう」(詩篇81:10)。「はい、主よ」。