2024年1月28日の礼拝メッセージ
聖書箇所 マタイの福音書 9章32~34節
主題聖句:
群衆は驚いて、「こんなことはイスラエルで、いまだかつて起こったことがない」と言った。
マタイの福音書 9章33節
本日の説教要旨:
「いまだかつてないこと」
「悪霊につかれて口のきけない人」の癒やしの後、人々は二種類の反応を示しました。「驚いて、『こんなことはイスラエルで、いまだかつて起こったことがない』と言った」群衆と、「『彼は悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ』と言った」パリサイ人たちです。自分たちの地位を脅かし、人生をかき乱す主イエスに対する妬みや怒り、恐れからの反応でしょう。真理だとわかっていても、今までの生活が崩されたり、周囲に波風が立ったりすることを恐れて、一歩踏み出すことを躊躇していないでしょうか。神に真っすぐ向き合っているでしょうか。心を閉ざしたり、斜に構えたりしてはいないでしょうか。
パリサイ人たちは第12章で再び非難し、主イエスが今度は反論・警告されました(12:22~30)。「警告にはブレーキの役割があります。そうなってほしくないので、警告がなされるのです。どうでもよかったら、放っておくでしょう。イエスの警告の言葉も然り、愛するがゆえに、そうなってほしくないと心から願うゆえに、厳しい警告があるのです。これもまた、形を変えた招きの言葉と言ってよいでしょう」(中島真実師)。主イエスはユダを「最後まで(極みまで)愛し通され」、ユダの足をも洗われました。それは、ユダに最後の悔い改めの機会を与えるためでもありました。神は、「立派であることを要求する神」ではなく、「限りなく赦そうとする神」なのです。ペテロやパウロを赦し、そして私たちをも限りなく赦してくださる神だからこそ、私たちは今こうして礼拝できているのです。惨めで駄目なときこそ、神と仲間のもとに帰るべきです。「人間は、神を乗せて、神が意志する方向に進むか、それとも悪魔を乗せて、それが指図する方向に進む、そのどちらに乗られるかが決定的な分かれ目になる」(ルター)。
※撮影トラブルにより礼拝動画が途中で切れてしまっております。