2024年4月14日の礼拝メッセージ

聖書箇所 マタイの福音書 第10章40節~第11章1節

主題聖句:

わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません

      マタイの福音書 第10章42節

本日の説教要旨:

「一杯の冷たい水でも」

 伝道では反対者も起こりますが、「受け入れる人」も起こされます。敵か味方か、すぐに色分けしやすいものですが、「『いつ』その判断を下すかで、ものの見え方が変わってくる…私たちは、判断が早すぎる…イエス・キリストが再び来られるその日まで、判断をいつも留保しながら、しかし期待しながら歩んでいく」(大嶋重徳師)ことが大切です。

 当時、旅人のために寝場所を提供し、食物や衣服を与えてもてなす習慣がありました(ローマ12:13、ヘブル13:2)。非常に暑く乾燥した中東で「一杯の冷たい水」は貴重品です。そんな「一杯の冷たい水を」貧しい中から「わたしの弟子だからということで…飲ませる人は、決して報いを失うことがありません」。我が子が誰かの世話になったら、親は我が事のように喜び、その人に感謝を表します。我が子を愛しているからです。同様に、主イエスは使徒を助ける人に同じ心を抱いて報われます。いわば使徒や私たちは、周囲に祝福が注がれるためのパイプ役なのです。そう思うと、私たちが福音を自分の中だけに留め置き、他に分かち合おうとしないことが、どんなに大きな損失であるかということに気づくでしょう。主イエスの弟子として「自分の十字架を負って」従うとき、難しい事態に直面するかもしれません。しかし、あなたは祝福のパイプだ、あなたを通して周囲に祝福をもたらしたいのだ、だから「わたしについて来なさい」と語りかけておられるのです。