2024年4月21日の礼拝メッセージ
聖書箇所 マタイの福音書 第11章2~6節
主題聖句:
マタイの福音書 第11章6節
本日の説教要旨:
「動揺することもあるが」
主イエスの道備えをしたバプテスマのヨハネでしたが、悪を滅ぼし正義を確立すると考えていた主イエスが(3:7~12)、待てど暮らせどヘロデをさばかず、自分を牢獄から救い出してくれないので、もしかしたら約束の救い主はまだ来ていないのではないかと迷いが出たのでしょう。ヨハネの疑問に主イエスは直接答えず、ご自分がこれまでしてきたこと、ご自分によってイザヤの預言(35:5~6)が成就していることを伝え、ヨハネ自身が総合的に考えて答えを見出せるよう導かれました。
「神がほかのみんなのためには奇跡を行ってくださるのに、あなただけがのけ者にされているように感じたことはないだろうか。神が祈りに答えてくださるのを待つ間…希望を握り締め続けることは難しい。だが、あきらめたくなるとき、私はいつでもある老牧師の『神の文法』という題の説教を思い出す。
『神が終止符を打ったところに、コンマを置いてはいけない。また、神がコンマを置いたところに、終止符を打ってはいけない』。私たちが終止符だと思ったものが、実はコンマだったということがある。それはただ、御心に基づいて神が間をあけていらっしゃるだけなのだ」(バターソン師)。「みことばの戸が開くと光が差し 浅はかな者に悟りを与えます」(詩篇119:130)。先入観を横に置き、虚心坦懐にみことばに向き合うなら、「戸」を無理やりこじ開けなくても、みことばのほうから「戸が開」かれ、「悟りを与え」られるのです。